私が開院した理由
幼い頃から
父の営む整骨院の受付にちょこんと座り、患者さんに愛想を振りまき、漢字の書きとりの勉強をしながら、父の治療する背中を見て育ちました。この頃からお父さんみたいになりたいなんて言っていたような気もします。
15才の夏、転機は突然やってきました。
小学校から柔道を始めた私は高校生になっていました。高校1年の夏、大阪体育大学での夏休み最後の公式試合、私は1年で軽量級にもかかわらず、団体戦の大将で出場しました。
監督の戦略もあったのでしょう。
相手は100㎏を超える3年生、私は相手に投げられそうになった際に一本取られてなるものかと何とか体勢を捻りました。が、力負けし、パワーで持っていかれ、そのまま巻き込まれました。
相手の100㎏の全体重が私の肩(両肩背中がつくと一本負けなので最後の悪あがきで半身になっていた)に乗ってきました。
その瞬間、
ボコン!!という音が聞こえました。私は『やってしまった。音からして脱臼だろうか?』と、とっさに思いました。判定は技あり、そのまま私は抑え込まれました。
しかし主審、副審は投げられた瞬間、肩から落ちたことを見逃さず、試合を止め、100㎏の相手に抑え込まれたままの私に、『キミ、やれるか??』と聞いてきました。
〝やれるか?〟と聞かれて、
『やれません』という選手はいません。
が、、
痛すぎて、『やれます』とは言えませんでした。(笑)そのままでは危険ということで寝技を解き、主審が確認すると、なんと鎖骨骨折!試合は棄権となりました。
そして、監督にこう言われました。
親父さんのところの整骨院に行くか?
それとも近くの整形外科まで行くか?
私は2つ返事で父のところへ連れて行ってほしいと答えました。大阪から和歌山まで高速を走らせ1時間弱、父のもとへ行き、鎖骨を徒手整復にて手術せずに治してもらいました。
そのときに見た父の背中は、幼い頃より見てきたその父の背中そのままでした。そんな素晴らしいほねつぎの技術をもつ父を誇らしく思いました。このとき漠然としていた私の将来目指す道がはっきり見えたのでした。
このとき、私が試合会場近くにある整形外科を選択していたら、おそらくこの道に志すことはなかったでしょう。
15才の夏、自分の進路を決めた出来事でした。
21才、春 柔道整復師国家試験合格
私は3年間、宮城県仙台市にある、東北柔道専門学校(現・仙台接骨医療専門学校)にて文武両道の精神で柔道と勉強を3年間の寮生活で学び、柔道整復師国家資格を取得し、和歌山に帰郷しました。
21才の春の出来事でした。
新たなる道へ 鍼灸師国家資格取得
私は仙台での柔道漬けの日々の中で、腰椎椎間板ヘルニアになってしまっていました。症状はひどく下肢への放散痛に苦しみました。そんな私は専門学校在学中、卒業後の進路を考えた際、鍼灸師の専門学校に入り、さらに治療の勉強をしたいと考え、大阪の鍼灸師の専門学校を進学を決意したのでした。
鍼灸師の専門学校在学中は学校近くの整骨院で仕事をしながら学校へ通う毎日でした。幸い、良い院長、そして何よりも職場で出会った先輩から、多くのことを学び吸収し人間として成長することが出来ました。
大阪、和歌山での分院長の経験を経て
大阪や和歌山で分院長を任せていただく機会をいただき、時に壁にぶつかり苦労した時期がありました。当時の職場で、まだまだ未熟だった私を分院長に抜擢していただき、あの時の試行錯誤した時期があっての今の私があるのだと思っています。
父の勇退をうけて
2011年1月、父の勇退をうけ、雄湊畠中整骨院・鍼灸院を継ぐことになり実家に帰ってきました。父が完全に引退するまでのわずか半年の移行期間、親子で働かせてもらったのは大変貴重な経験でした。その後、2012年にホームページを製作したのを皮切りに父の時代にはなかったもの、新しいことをどんどん取り入れていきました。
2013年には
開院40周年を迎えることが出来ました。
そして、2015年
外観のリニューアルやベッドの一新、そして新しいハイテク治療機器の導入や、以前よりずっと練っていた新しい治療技術のメニュー化、保険外自費治療への対応強化を行ないました。
しかし、僕の治療の根底にあるものは今も昔も変わらず、父の教えです。地域医療にずっと貢献し続けてきた院の理念を引き継ぎつつ、和歌山市外からもたくさんの患者さんが来院して下さる今、期待に応えられるよう、日々東京、大阪へ行き、最新の勉強しています。
当院の理念は〝温故知新〟
故きを温ねて新しきを知る
15才の時と変わらぬ思いと情熱で、私は来院してくださるすべての患者さんの症状改善を目指し、毎日の治療に励んでいます。
今は3代目がすくすく成長しています(笑) 七五三より