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母について

母について

2023年12月25日(月)9:33 AMブログ

いつもお世話になりありがとうございます。

 

今までお伝えしていませんでしたが、1年前から闘病中であった母が10月8日に71歳の若さで亡くなりました。50年の当院の歴史の中で40年以上、整骨院のために尽力してくれた母でした。父が12年前に引退した後も、我々息子夫婦のために手伝ってくれました。

 

今回、通夜、告別式のため10月10日、11日は事前のHPやSNSでのお知らせもできず、具体的なお知らせもせず、喪中の張り紙一枚での対応になってしまい申し訳ありませんでした。この場を借りてお詫び申し上げます。

 

また、この期間に整骨院まで足を運んでいただいていた患者さんには、把握できた限り、後日事情をお伝えしましたが、その他の患者さんには今日このブログを書くまで一切お伝えしていませんでした。もちろん気を使って欲しくなかったこともありますが、気持ちの整理が追いつかなかったからです。

 

しかし、母が整骨院で私たち夫婦を支えてくれていた頃を知っている患者さんも多く、患者さんにお伝えしないのもどうかとも思い、このまま言わないまま何らかの形で母を知る患者さんの耳に入ったときに申し訳ないと考え、私の口から今回、2023年の終わりに、来年に向けて気持ちの整理をし、長文になりますが、母について書かせていただきます。

 

ちなみに、整骨院の蛍光灯も2本切れていましたが、替える気にどうしてもなりませんでした。スタッフがわざわざ買ってきてくれたのに全然替えませんでした。

 

四十九日がすぎて、先月末にようやく替えました。

 

ここ2ヶ月くらいの間、母が亡くなる1週間前くらいから最近まで、自分らしさに欠けるような気がして、普段ならもっと患者さんのためにできるはずの気配りなどできていなかったような気がします。

 

私はちゃんとできていたでしょうか?

 

心の内をみんなに悟られることなく、自分らしくちゃんとできていたのか、自分ではわかりません。普段おしゃべりな私が、もしここ最近で口数が妙に少ない時があったならば、おそらく隠すのが下手くそだったタイミングだと思います。

 

思い返せば、ちょうど1年前に病が発覚して余命3ヶ月から6ヶ月と診断を受けました。家族としては到底受け容れ難く、信じられないことではありましたが、そこから倍も生きてくれました。

 

入退院を繰り返し、入院となればなかなか退院もできず長引きましたが、入院中は面会可能の平日は、本当にほぼ毎日、日赤まで通いました。仕事の休憩時間のほんの少しの時間でしたが、10分程度でしたが、毎日会いに行きました。

 

今でも日赤に行く道や、日赤のエレベーターに乗ると上の階に母が居るような気がしてしまいます。駐車場に車を止めて日赤まで向かうエレベーターに向かうルート、エレベーターに乗ってから病室までの道、毎日いろんなことを考えながら歩きました。あの道、もう通りたくありません。私は顔に似合わず、意外にナイーブということを今回、気付きました。

 

自宅に戻っている時はなるべく会いにいきましたが、母にはやっぱり父が一番の特攻薬のようで、父の献身的な看病でとても元気になりました。病気は治ることはなくとも、2年3年と生きてくれるんじゃないかと希望が持てるほどでした。父は家族の先頭に立ち、全てのことをやってくれました。本当に、何もかも全てです。兄も弟も、私も、これには本当に驚きました。

 

でも一番驚いていたのは母だったかもしれません。

 

この1年、たくさん母と話しましたが、『お父さんすごいなぁ。』が口癖のようになっていました。いつも見舞いに行っても二言目には父の心配をするような母でしたし、元気な頃も父が第一、の人でした。

 

そして、兄は時間を作って日々、たくさんのことをしてくれましたし、私がガサツな分、兄のきっちりしたところに私もたくさん甘えました。お互いいろんな仕事をする中で相談し支え合ってきました。やはり長男はすごいです。私はいつまでも、いつまでも出来の悪い次男坊です。

 

兄とは二人で在宅医を探したり訪看を探したり、主治医に話を聞きに行ったり、たくさんのことをしてきました。息子の友人のお父さんがケアマネで、その方に真っ先に相談しました。城北の包括センターでは大変親切にしてもらい、いろんな良い出会いもあり自宅でも良い環境で過ごせるような体制が整えることができました。

 

私の妻には自分の美容鍼の仕事やプライベートの予定の調整などを行ってもらい、子どもたちを家で見てくれていたので、母のためにサクサク動くことができました。本当に感謝です。

 

沖縄の弟も、遠方より頻繁に孫を見せに来てくれました。沖縄往復の交通費、なかなかそう頻繁にできるもんではないと思います。我が弟ながら、大した男です。

 

何より、弟一家がすごいところは新しい命を宿し、その子の名に母の睦の字を一字付けたことです。これは弟の奥さんの粋なところで、なかなか普通できることではありません。奥さんは大賛成だったとのことで、義兄として頭が上がりません。

 

どれだけ母にとって、そして私たち家族にとって明るい希望、新たな光になったことか。

 

そして先日、無事に元気な女の子が生まれました。生前、母は生まれてくる孫を楽しみにしていました。会うことは叶いませんでしたが、きっと喜んでいることと思います。

 

思い返せば、告知を受けて3ヶ月と言われたのは昨年の12月、ちょうど今の時期でした。

 

急に母がいなくなるかもしれないという不安で当時はとても動揺しました。あの瞬間から一貫して私の中にあるのは、母親への感謝の一点のみ、溢れてくる感情は『ありがとう』だけでした。優しいだけなく、厳しく強く、そして愛深く育ててくれたことへの感謝、この感謝の気持ちしかありませんでした。

 

亡くなるときは自宅で、父、兄、弟、私と私の妻に看取られて最期の時を迎えました。その時のことは今でも私の中に深く刻まれています。

 

亡くなる1週間前、予定していた1週間後に迫る鹿児島国体の帯同を直前になって急遽取り止めることを決め、和歌山県相撲連盟には大変ご迷惑をおかけしました。一緒に帯同する予定にしていたトレーナーの先生にも負担をかけてしまいました。私が所属している近畿整骨師会の執行部の会務についても、亡くなってからの四十九日の間、休ませていただき、その間にいろんな気持ちの整理もつけることができました。

 

通夜、葬儀では家族葬のつもりがたくさんの供花、弔電をいただき、そして多くの方々に弔問、参列していただきました。

 

亡くなった当日、または翌日に自宅に弔問に駆けつけてくださった方々、丁寧にエンゼルケアを行ってくれた看護師さん、式でお世話になった方々、母に関わってくれた全ての方々、たくさんの人の優しさに触れてどれだけ私たちが救われたことでしょう。

 

喪中葉書を送ったら、北は宮城、西は長崎からも学生時代苦楽を共にした仲間から御供物が届きました。通夜には仕事で多忙にも関わらず、お世話になっている諸先輩方や、ことある度にバカ騒ぎができる楽しい居心地の良い高校の仲間たちが来てくれました。

 

本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 

自分の母親を亡くす経験は人生で一度しか無く、いつか必ずこんな日が訪れる、永遠に続くものは何も無いんだ、ということを改めて痛感しました。

 

自分の人生、そしてこれまでぼんやりとしか持っていなかった死生観を、今回初めて真剣に考えることができました。母から最後に教えてもらったこの気持ちを、自分の人生が終わるその時まで、悔いのないように生き、大事にしていきたいと思います。

 

長くなりましたが、私のことを知っている方々がこのブログを見たら、柄にもないこと真面目に、と笑うと思いますので、私と母らしいエピソードをひとつだけ、最後に書かせていただきます。

 

先日、四十九日を過ぎて、母親が夢に現れました。それも病気になる前のパワフルな頃の姿で現れました。

 

私はひさしぶりの再会で嬉しかったのですが、母は仁王立ちで私に『あかん!いっこもあかん!全然なってない!』って怒るんです。笑

 

私は『え〜それなりにちゃんとやってるつもりなんやけど。』と言いましたが、母は譲らず『あかん!全然あかん!』っていうんです。

 

母の後ろには父も立っていて苦笑いで首を振りながら『いやいや、ちゃんとやってくれてるて』ってフォローをしている、そんな夢でした。

 

もちろん飛び起きましたよ。笑

 

毎朝、線香と御供物のご飯を実家に持っていくんですが、そのとき朝一番に父にこの話をしたら笑ってました。なんでやろな、ようやってくれてるよ、と夢と同じような感じでフォローしてくれました。笑

 

そして兄にこの話をしたところ、兄の夢にはニコニコ微笑んで母が現れたそうな。

 

いや、なんでやねん。

 

でも、

 

夢でも叱ってくれてありがとう。いつも通りのお母さんに会えて嬉しかった。ではまたそのうち夢で逢いましょう。

 

でも、次は笑って出演してください。

 

合掌

 

 



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